top of page

2024年1月1日

あの日のこと

# 1  

#1

忘れもしない1月1日、16時10分。志賀町は震度7の揺れを経験しました。その直後には、「津波がくるため、高台に逃げるように」と放送が入りました。脳裏に浮かんだのは東日本大震災のあの映像。恐怖しかありません。

着の身着のまま、とにかく車で高台に逃げました。その頃には、日が暮れて寒くなり、次は、93歳の祖父をこのまま車に乗せて一夜を明かすことは出来ない、どうしよう、という不安。

高台のすぐ近くにある特別養護老人ホームアイリスさんに行き、施設長さんに状況を伝え、避難させてほしいと必死でお願いしました。

施設長さんは、迷いなく即答。

「十分な受け入れは出来ないかもしれないですけど、それでもよかったらどうぞ、入ってください」

施設長さんの優しさに思わず涙が出ました。

当時、アイリスさんは福祉避難所になっていたわけではなく(後に福祉避難所となった)、もちろん、受け入れ体制が整っていたわけでもありません。きっと、施設利用者の方々のケア、心配されるご家族からの問い合わせ対応で手一杯だったはず。そんな状況にも拘わらず、来るもの拒まず、約100人の私たち被災者をとっさの判断で受け入れてくださったのです。

断水の中、アイリスさんに備蓄してあったお米を炊き、おにぎりとあったかいお茶も全員に提供してくださいました。

また、高齢者と子ども優先でマットレスも貸してくださり、祖父や息子は、横にならせていただくこともできました。

震災直後、施設長さんの柔軟な判断と職員の皆さんの優しさに私たち100人は、命と安全を守ってもらいました。アイリスのみなさんには、感謝の念に堪えません。そして、忘れてならないのは、施設長さんも職員の皆さんも皆、私たちと同じく被災しながらも、我々を受け入れてくださったこと。

アイリスの皆さん、「本当にありがとうございました」。

​被災場所 ー 志賀町富来地区東小室

# 2 

#2

1月1日の話

午前中は妻の実家の富山県にいて、暗くなる前に家に帰ろうと、あと10分で家に着くタイミングで、妻と息子2人で車の中で震災にあいました。

一番最悪のイメージは中島石材店が回復不可能な状態になっていること。

会社に向かおうとしましたが、大津波警報となり海に近い会社には行けない。道が崩れ、ボコボコになっている中、通れる道を探しながら小高い丘まで避難しました。

何時間かして津波は落ち着いたと判断。乗用車に妻と子供たちを残し、30分くらい自らの足で走って軽トラを取り、車が通れる道を確認しながら工場に向かいました。

暗い中ライトをあて、震度5強クラスの余震が続く中での確認作業をしました。

被害は大きくありましたが大口径や天井クレーン、研磨機、字彫機材などなど致命的な損傷が無いことが目視できて、体の震えが止まりました。その後、軽トラに家族全員を乗せ、富山の妻の実家にその日のうちに避難させました。

子どもたちは水が来るまでの間、2か月くらいだろうか、、富山県の保育園に入れることにしました。地震の映像が流れると三歳の長男は「地震こわい」と言い、理解しています。

被災場所 ー 志賀町富来地区三明

# 3

#3

1/1 am 3日前から仕込んだおでん、黒豆などと、おせちつつく。義理の姉、姪、父母と。

午後になり、義理の姉は姪の昼寝の時間に帰ろうとするが、姪っ子少しぐずるので、近くを散歩。良い天気。母と二人、義理の姉と姪を見送る。父はお屠蘇で気持ちよく昼寝している。

母と二人おせちを食べなおし、近所の建部神社に初詣。大吉。

同じ家の敷地内にある「おばあちゃんの家」へ、母と二人で、着物を見に行こうという話になる。

「おばあちゃんの家」は築年数80年以上。この数年、古い壁や炉を復活させたり柿渋を塗ったり漆喰を塗ったりと、ちょっとずつ手をかけていた場所で、漆塗りの天井が美しい東向きの間は、私の寝床でもあった。

ストーブを持って2階へあがる。曽祖父や祖父の着物を取り出し、羽織ってみては「直して着たいねえ」なんて言い合っている。と、がたがたと強めの揺れ。「また珠洲かな」といいながら、母は着物もそのままに、急いで住まいの方へ戻ろうとする。私「ストーブと着物持って降りよう」と声をかけ、荷物を持って1階へ移動しかける。途端、ドンっと衝撃。16時10分。

急加速していくはげしい揺れが、家中を、私たちを包み込んでいく。立っていられず、母と二人、しがみつきあい、しゃがみこむ。目の前の電球が割れ、窓ガラスが飛んでいく。

おかしな話かもしれないけど、私は去年亡くなった愛犬の遺骨を住まいの方に置いてきたことを悔やみ、その骨壷が地面に落ちる様子を想像しては、何度も愛犬の名前を叫んでいた。母は「止まれ!止まって、お願いもう止まって!」と叫ぶ。でも揺れは止まらない。これまで体験したものとは違う。もうすぐ、床が抜けて家が潰れる…

どれくらいそうしていたのかわからない。静まり返った時間は、次の地震の前兆に思える。恐怖心を背負いながら、母と二人、一気に階段を駆け降りる。ガラス戸が外れ、あちこちから風が吹き込んでいる。襖や障子戸が畳と鴨居に食い込み、今朝まで寝起きしていた私の寝床は廃墟と化していた。

なんとか引き戸をドアをこじ開け祖母の家を出る。瓦、割れた植木鉢、窓ガラスが散乱しているなか、靴下でガレキを踏みつけて母家に入ろうとするがドアは開かず、そのまま外へ回り込む。近くにあったスリッパを拾って道に出ると、青白い顔した父が立っている。「どこにおったん」と間の抜けた声が妙に現実的に響く。

余震が続くなか、三人とも着の身着のまま。スマホを持っていないので状況がわからない。道の向こうに警察官の姿。大声で「津波!津波!高台に逃げて!高台に逃げて!」

裏山の荒木ヶ丘へと駆け出すと、近所の人たちの顔が見えて、涙が溢れてくる。「急いで、走って、走って!」

さっき参拝したばかりの神社は、本宮が歪み、鳥居や玉垣は石の山になっている。ブロック塀が道をふさぎ、コンクリートがひび割れ、どこかの家の壊れた配管から水が噴き出している。

裏山に登るが、どこまで行けばいいのかわからない。津波が来たのか、その後どうなっているのか情報がない。日が暮れるにつれ、気温が下がり冷えてくる。頂上に人が集まっていると聞き、行ってみる。若者たちが火をおこしてくれていて、みんなで暖をとる。「原発どうなってるんだろ。私たちもう被ばくしてるのかな」と投げやりな会話を交わす。強い余震、地震速報が響くなか、防災無線の「地震です」と読み上げる呑気な声が滑稽だった。

20時くらいだったろうか。迎えにきてくれた警察の方、区長さんたちを先頭に、となりの人と手をつなぎながら、ぞろぞろとつならって、のちの避難所となる高田防災センターへと30分ほど歩く。

たどり着いた防災センターの蛍光灯が、明るくて眩しかったのを覚えている。

配られたレトルト食品のソーセージやごはんは冷たいのに、みんなは異様に興奮していた。寝袋ももらえたし知人たちと声をかけあうこともできる。でも、ほぼ1分に1回とも感じられる高頻度の余震。揺れるたびにみな起き上がる。断水なので外で用を足すしかない。土足の足が私の寝袋の脇を通っていく。子どもも犬も不安そうだ。まともに寝れるわけがない。

一体何が起こってしまったのだろう?

澄んだ空気のなか、夜空に浮かぶ月が赤い。

被災場所 ー 志賀町富来地頭町

# 4

#4

焦ってた。

 

「え、地震?」

「え、能登?」

「え、志賀町?5?え?震度7?!」

テレビの映像で倒壊を察して恐怖を感じた。

「え?土煙が立ってる・・・」

そっから、ずーーーーっとテレビの前。

新着で届くメッセージを見ながら、志賀町の富来地区に暮らす友人の連絡を待っていた。

こんな状況で電話をするのは迷惑だ、だめだ、と思いつつ電話しちゃったりして。

友人の住む地域の名前を入れて、ネット検索したり。

画像見て「これはやばい」と感じた。

不安になり、深呼吸と同時に涙でたりした。

金沢に住む知人に連絡とをって、やりとりをしたり。

東京の友達も「あいつの家のとこじゃないか?」とメールくれて、近くの情報をくれたりした。

でも、友達の住まいとわりかし近いとこで家が崩れてるって聞いて。

おいおいおいおい・・・と、また焦る悪循環。

ずっと悶々としながら、ともかく連絡が取れる人とメールしてた。

確実に停電だし、夜だし、寒いし。

こりゃあかんと。

いつ思い出しても、こわい。こわいよ。こわかった。

ー ​千葉・銚子

# 5

#5

大晦日の除夜の鐘の後、新年のお参りである修正会(しゅしょうえ)を勤めるため朝4時に起きていた僕の身体は休息を求め、午後に入ってから少しうたた寝をしてしまっていた。

子どもたちのにぎやかな声で目を覚まし、散らかった部屋を掃除し始めたその時、少し揺れの大きい地震があった。テレビの速報は、珠洲が震源地と伝えていた。

「また珠洲。。。」と思っていたら、今度はけたたましく携帯が鳴り響いた。

 

2024年1月1日、能登は誰もが思いもよらぬ、新年の幕開けを迎えることとなった。

大津波警報が発令され、取るものも取らずに近くの集会所に家族と避難したのだが、すでに次から次と地区の住民が集まり、改善センター前の広々としたグラウンドはすでに、避難してきた人たちの車で溢れていた。みんな一様に「もう、うちわやくそやー」といい、不安げな様子だった。

 

ひっきりなしに続く大きな余震の度にあちらこちらから悲鳴に近い叫び声が、より一層僕を整理のつかない現実へと引きづり込んでる感覚だった。

そんな状況とは裏腹に時は規則正しく刻まれ、すでに周囲は薄暗くなり始め先ほどまで感じることのなかった寒さがようやく気になりかけた。

 

何事もなっかったような空を恨めしく眺めながら、3,000m級の山々でのテント泊や東日本大震災のボランティアの経験が蘇ってきた。僕は一旦シズ(妻)と長期戦に備え必要と思えるものを取りに家に戻ろうと話をした。

横にいた長女が「危ないからやめて」と引き止めてきたが、「大丈夫」と、全く長女を安心させることのない返答だったなと思いながら自宅に向かった。

 

足早に自宅が見えるところまで来て、避難する際に目にした光景と目の前に映るものがピッタリと重なり合い、ようやく自分の中で現実を疑っていた心が消えていく感覚になった。 

本堂の屋根からは棟瓦が消えていた。鐘楼堂も柱が束石から外れ浮き上がり、下の道路に大きく傾いていた。

夢ではなかった。

屋根瓦が散乱する玄関前まで来た時、木製フェンスの柱につかまりながら家の中にいる家族に向かって「早く、外に出ろ」と叫び続けてた自分を思い出した。

しかし、あの時どうやって外に出たのか今だに思い出すことが出来ない。

 

躊躇することなく、『ヤケクソ』という言葉がピッタリ、、、玄関からそのまま土足で上がり込んだ。

 

お寺を預かる住職というのは、万が一の時には真っ先にご本尊を安全なところに移すということが責務だと聞かされてきた為、すぐに本堂に向かった。後ろを向いて傾いた状態で落下こそしてはいなかったが、安全な場所などあるはずもなかった。

修正会のお参りに飾られた荘厳や仏具が全て落下、壁も剥がれ落ち梁もはずれ隙間から外が伺える状態だった。

 

毛布や寝袋そして子どもたちのジャンパーや両親の飲み薬など必要なものをぐちゃぐちゃに散乱した室内から探し出すのに時間がかかると思え、長くそこにとどまることは出来ず、結局ご本尊をそのままにした。

バキバキバキ、何を踏みつけているのかと気にもとめず、自分が大切だと思っていたものもどうでもよいと思えてきた。

悔しさとも怒りともいい現せない、自分の中に潜む闇が容赦なく室内に散乱した物の上を歩ませてるかのようだった。

 

引っ張り出した荷物をまだ置いてあった車に乗せ、再び避難所へと急いだ。

避難所前はテントが張られ、中にストーブが置かれそのストーブを囲む人の中にうちの子供たちもいた。

やがて、センター内の片付けが終わり使用可能となった。ただ、どうやら水が使用できない状況で、トイレは外でするようにと案内があった。

センター内のテレビから地震の報道がながれていたが、自分たちがどういう状況におかれているかを知り得るには、ヒビが入り画面の上部が黒くなったテレビからでは情報を得ることは難しかった。

 

そのうち富山の友人から携帯に電話があった。志賀町が震度7ということで何度も電話をしてたようで、ようやくつながり、安否が確認できたことにひとまず安心したと伝えてくれた。

気づけば、ショートメールでたくさんの電話があったことを知った。

外はすでに真っ暗で、さっき会った正月で帰省していた幼なじみの言葉を思い返した。

「周りわやくそやけど、星めちゃくちゃキレイや」

 

2024年元日の夜空にはたくさんの星が輝いていた。

被災場所 ー 志賀町酒見

# 6

#6

富来に嫁いで9年目の2024年の元旦、いつものように午前中にダンナさんの実家に集まりご先祖様にお参りしてみんなでおせちをいただく。

15時すぎに一旦休んでまた夜集まろうと解散。私たち夫婦は毎年この後、富来地頭町の建部神社にお詣りに行き破魔矢とおみくじをひいて高田の家に帰る。今年もそう。

帰宅しおみくじを見返そうと思ったら地震。「また珠洲かな…最近多いね」って話してたら経験したことのない揺れ。

17年前の能登の地震を経験してない私は恐怖で動けず、トイレから出てきたダンナさんに引っ張ってもらい廊下でおさまるのを待ちました。急いで外に出るとご近所さんの納屋が崩れていて道路に大きな亀裂。

近所の方が「津波や!」ってみんな高台に向かうも地頭町の家に家族がいるので心配でダンナさんと地頭町へ。

一階の店舗はグチャグチャで大声で呼ぶことしかできない。

みんななんとか下りてきて7人で車3台で高台へ避難。

余震が続く中、高田の家に戻り毛布と水をなんとか取り出して高台に戻り車で一晩過ごしました。

その夜の星がとてもキレイで自然は敵なのか味方なのか…複雑な思いになりました。

 

今思えば、17年前にも地震があり、数年前から珠洲では地震が続いていたのに、石川県は災害も少なく安全な地域という昔聞いた言葉に甘えて何も備えてなかったことが悔やまれます。

津波がきていたのに家族が心配で海の近くの方へ行ったけど、大きな津波だったら…と思うととても怖いです。

被災場所 ー 志賀町富来高田

bottom of page