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時計を修理するのは誰

先日、こんな話を聞きました。


富来出身で、現在は関東在住のボランティアさんたちが、短期ボラで、高齢のお父さんお一人暮らしのお家へ手伝いに入った際のこと。

内容は被災家屋の片付け、災害ゴミの運搬で、お父さんは「もう捨てて、捨てて」という感じで作業は順調に進んでいきました。


そんななか、一つの掛け時計を見つめて、ふとお父さんの手が止まります。


「お父さん、この時計も捨てる?」

ボランティアさんが尋ねますが、「うん」と言わないお父さん。

ぽつりと、

「・・・もう捨てるしかないよなあ、直らんやろうし」


よくよく話を聞くと、その時計はお父さんにとってすごく思い入れあるものだそう。


壊れて動かない、古い時計・・・

お父さんの大切な時計・・・

(どこかで聞いた歌みたいですが)


心動かされたボランティアさんたちは、早速、近くの時計屋さんに修理を依頼。

だけど、古いものなので修理できないとのお返事。


このままでは納得できない、と思ったボランティアさんたちは、「必ず東京で修理して返します!」と約束し、お父さんから時計を預かったのでした。


ボランティアさんの実家のご家族が「時計を修理するお金とか、送料とかはどうするの?」と尋ねたところ、ボランティアさんたちは「もちろん、私たちが払う!」と。



それが、3ヶ月ほど前のこと。

時計は未修理のまま、今もまだ、能登のご実家に置いてあるそうです。




さて、少し話がそれちゃいますが、私は一人旅をよくしていました。

(最後に行ったのはもう6年前くらいになっちゃいますが)


趣味で、フィルムカメラで写真を撮っていて、仲良くなった人に「写真ができたら送って」と言われれば「必ず送るね!」と約束して、一つの国で少なくとも3、4名から住所を聞いて帰ってきていました。


でも、結局、一度も写真を送ることはありませんでした。



あの頃の自分を代弁して言い訳をするならば、旅先がインドやキューバ、ミャンマーなど、なかなか郵便事情がよくなかったから・・・というのが一つ。

もっというと、その時は「絶対送る」って思ってるんだよ、でもさ、帰っていろいろ忙しくて・・・というのが一つ。




時計の話を聞いた時、私は、なぜか異様に語気を強めて

「それはボランティアとしてしないほうがいい」

「全員の人に同じことはできないから」

と、強く言ってしまったのだけど、その背景には、かつての旅先から抱え込んだ個人的な「罪悪感」があるからだなと気づきました。



話は戻って、お父さんの時計は、いったいどうするのがよかったのだろう?


お父さんに「仕方ないよ、直らないから捨てよう」というのがよかったのか?

「そうだねえ」とかなんとか言って適当に流しておけばよかったのか?


私は、ボランティアができる最大は「修理先を調べて紹介するまで」だと考えています。

例えば、金沢にこういう時計屋さんがあるよ、とか、東京にこういう時計屋さんがあるよ、とか。

そうすればお父さんが本当に修理したければ、自分で送って修理依頼をすることができます。


でもこれも、本当に信頼できる依頼先なのかは自信がもてない場合が多い。

だとしたら、「息子さんや娘さん、ご親族に相談してみたらどう?」と、促すくらいにとどめておくのが、良いのかな、とも感じています。


たぶん、今、お父さんの大事な掛け時計は、ボランティアさんにとって小さな重石のような存在になってしまっているのでは、と懸念しています。


誰かの「大切なもの」が誰かの「心の荷物」になってしまうのは、ちょっと辛い。


ボランティアさんたちが、本当に心からの善意で、本気で直して送ろうと思っていた(る)からこそ、特に。



未来への約束をしなくても、その一瞬の出会いで救われることもあるというのが、最近の気づきです。




とはいえ・・・実はお父さんが一番、時計は戻ってこないかもな、ということをわかってたりするんだよなあ。


(写真はむかしむかし、赤崎で撮らせてもらったおばあちゃん)


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